10.ベッリーニ

ヴィンチェンツォ・ベッリーニ( Vincenzo Bellini 1801-1835年)はシチリア島のカターニア( Catania )で生まれました。若くして天才作曲家の地位を確立し、ナポリやミラノで活躍したのですが、病で34歳の短い生涯を閉じました。作品は多くはありませんが、彼のオペラ「ノルマ」( Norma )は、オペラの中でも傑作として知られています。

彼の出身地カターニアのオペラ座はベッリーニ劇場( Teatro Bellini )といい、カターニアの郷土料理であるリコッタチーズとトマトソースのパスタは彼の名前にちなんで「スパゲッティアラノルマ」( Spaghetti alla Norma )といわれています。

オペラ「ノルマ」の非常に美しいアリア「清らかな女神よ」(Casta Diva)をお聴き下さい。天上の調べといえます。

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9.ドニゼッティ

19世紀前半にイタリア・オペラの全盛期を迎えたロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティといった作曲家をご紹介します。ガエターノ・ドニゼッティ( Gaetano Donizetti 1797-1848年)は、ベルガモ( Bergamo )で生まれました。

貧乏な家の出身でしたが、ベルガモの慈善音楽院のヨハン・ジーモン・マイヤーに才能を認められ、苦労の中で非常に多くの作品を書きました。彼は短期間で書き上げることで有名で、オペラでも数日で完成させたといわれています。

オペラの数だけでも70ほどもありますが、その数のわりに、彼の代表的なオペラである『ランメルモールのルチア』( Lucia di Lammermoor )と『愛の妙薬』( L’elisir d’amore )を除いては、あまり演奏されることがないので、まだまだ過小評価された作曲家といえましょう。

『ランメルモールのルチア』は、恋人の悲劇を描いた作品で正気を失ったヒロインが歌う「狂乱の場」で有名です。ですが、ここでは私が個人的に非常に美しいと思う楽器ハープが歌う場面をご紹介しましょう。

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8.ケルビーニ

チマローザに続いて、ロッシーニにはじまるイタリアオペラの全盛時代の前に活躍した作曲家にルイージ・ケルビーニ( Luigi Cherubini 1760-1842年)がいます。

彼はイタリア出身ですが、活動は主にフランスのパリでした。チマローザ同様、今日ではそれほど名が知られていないものの、その時代ではベートーベンなど偉大な作曲家にも評価されました。彼はオペラや宗教曲、交響曲を残していますが、中でもオペラ『メデア』( Medee )、ルイ16世の処刑を悼んで作曲された『レクイエム ハ短調』は今でも演奏される名曲です。

ケルビーニですら、今日ほとんど演奏されないので、名声を得ても後世まで名の残らない作曲家は無数にいるのでしょうね。

ケルビーニ「メデア」の一部をお聴き下さい!

歌い手は名歌手マリア・カラスです。

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7.チマローザ

これまでバロック時代のイタリアの作曲家を中心に取り上げましたが、近代へと移って行きましょう。イタリアのオペラは19世紀よりロッシーニやヴェルディなどの天才的作曲家の登場によって全盛期を迎えるのですが、それまでに大きな成功を収めていたのがドメニコ・チマローザ( Domenico Cimarosa 1749~1801年)でした。

今でこそ、その存在は忘れられていますが、当時の文豪ゲーテやスタンダールにも称賛され、モーツァルトにも影響を与えたといわれる作曲家でした。彼の傑作として今日にも残るのは「秘密の結婚( Il Matrimonio Segreto )」です。

チマローザはナポリを中心に活躍しました。そのナポリは、フランスのナポレオン軍に占領されたときに共和制になりました。チマローザは「共和国賛歌」を作曲したのですが、すぐにナポリ王国が復活。チマローザは「裏切り者」として投獄されたということです。

チマローザの傑作「秘密の結婚」序曲をお聴き下さい!
 

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6.タルティーニ

ジュゼッペ・タルティーニ( Giuseppe Tartini 1692-1770年)は、パドヴァ( Padova )で活躍したヴァイオリニスト・作曲家です。作品のほとんどはヴァイオリンの協奏曲かソナタです。パドヴァの大学では、法律を勉強し、フェンシングの名手でもあったようです。

ヴァイオリンの演奏技術を彼によって向上させた功績があります。作曲家としては『悪魔のトリル( Trillo del Diavolo )』が非常に有名で、今でも多くの演奏家によって弾かれています。

「悪魔( diavolo )」という名前がついているのは「夢で悪魔が弾くヴァイオリンを聴き、それを書き留めた」とタルティーニが語ったとされているからです。

トリエステにタルティーニ音楽院( Conservatorio di Tartini )があります。

では「悪魔のトリル」(1楽章)をどうぞ!

演奏はイタリア人のFranco Gulliの名演です。

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5.スカルラッティ

バロック時代を代表する作曲家といえば、ドイツのバッハ、ヘンデルがすぐにあげられますが、この2人と同じ1685年生まれのイタリア人ドメニコ・スカルラッティ( Domenico Scarlatti, 1685年-1757年)も、その時代のチェンバロの曲に革新的な作曲家です。(当時、現在のピアノはなく、その前身がチェンバロです。)

スカルラッティは、後半生、宮廷楽長としてポルトガル、スペインで過ごし作曲を行いました。マリア・バルバラというポルトガル王家王女、のちのスペイン王妃に王女の家庭教師として作曲したといわれる数多くのチェンバロ練習曲は、現在もピアノレパートリーのソナタとして頻繁に演奏されています。

ソナタL23 ホ長調をお聴き下さい!

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4.コレッリ

弦楽器の製作者としてストラディヴァリウスを取り上げました。17~18世紀のイタリアでは、弦楽器の普及とともに、ヴィヴァルディをはじめ弦楽器を中心とした作曲家が登場しました。そのはじめの一人がアルカンジェロ・コレッリ( Arcangelo Corelli 1653年-1713年)です。

彼は、ヴァイオリニストとしてローマを中心として活躍し、『ラ・フォリア』として有名なヴァイオリン・ソナタや、『クリスマス協奏曲』として知られる合奏協奏曲集を作曲しました。彼の作品は、バッハやヴィヴァルディにも影響を与えたといわれています。

コレッリの『クリスマス協奏曲』をお聴き下さい!

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3.ストラディヴァリウス

ヴァイオリンやチェロなどの弦楽器は、イタリアが発祥であることをご存じでしょうか? 現在のような弦楽器の大きさが定まったのは16世紀頃で、クレモナ( Cremona、イタリア北西部 )がこの弦楽器製作の「聖地」といえます。この地で活躍した製作家で燦然と輝くのが、アントニオ・ストラディバリ( Antonio Stradivari、1644年-1737年)です。

ストラディヴァリの楽器は、美しい形状・音色であることはもちろんですが、木の材質、ニスなど製作については謎の部分も多いといわれています。

ストラディバリが製作したヴァイオリンは、今では名器として数億円の値段がつくこともあります。また高価なゆえに盗難や偽物も多く、現存する約600挺ほどある楽器の多くには「レディ・ブラント」「ドルフィン」「メシア」などとひとつひとつに名前がついているほどです。

ストラディヴァリウスが大変な額で落札されたニュースです。

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2.ヴィヴァルディ

アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ( Antonio Lucio Vivaldi, 1678年-1741年)はヴェネツィア( Venezia )出身の作曲家です。ヴィヴァルディの「四季」といえば、どなたでも一度は耳にしたメロディーでしょう。バロックの作曲家として傑出した存在です。ヴィヴァルディは、カトリックの司祭( sacerdote )として、ピエタ慈善院付属音楽院 ( Ospedale della Pietà ) でヴァイオリンを教えました。

ヴァイオリン曲を中心に500以上の協奏曲を作曲したといわれています。日本でも特に有名な「四季」(  Le Quattro Stagioni )は、『和声と創意の試み』( Il cimento dell’armonia e dell’invenzione )という作品名で、その他には『調和の霊感』( L’estro armonico )が知られています。

バッハにも影響を与えたといわれるほどのヴィヴァルディですが、晩年は人気も落ち、死後はその存在はほとんど忘れられていたそうです。20世紀になってから再評価されていきました。ちなみに私のあるイタリア人の友人はヴィヴァルディを知らず、「誰?」と奥さんに尋ねていました。イタリアでは日本のような音楽史の勉強が必須ではないからのようです。日本人の方が、イタリアに詳しいということも往々にしてあることのようですね。

ヴィヴァルディの代表作『調和の霊感』の一部をどうぞ!

 

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1.モンテヴェルディ

クラウディオ・ジョヴァンニ・アントニオ・モンテヴェルディ(Claudio Giovanni Antonio Monteverdi, 1567-1643年)は16世紀から17世紀にかけてのイタリアの作曲家です。マントヴァ公の宮廷楽長、ヴェネツィアにあるサン・マルコ寺院の楽長をつとめました。

モンテヴェルディの作品はルネサンスからバロック音楽への橋渡し的存在とされていますが、何よりオペラの最初期の作者として知られています。現代でも演奏される彼の最も有名な作品の一つが『オルフェオ( Orfeo )』です。他には『ウリッセの帰還』( Il Ritorno d’Ulisse in Patria )と『ポッペーアの戴冠』( L’Incoronazione di Poppea )が知られています。

モンテヴェルディの代表作「Orfeo(オルフェオ)」の一部をご紹介します。

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ルネッサンスⅡ

ギリシャ・ローマ古典文化の再生

東ローマ帝国では古代ギリシャ文化の研究が盛んになっており、1453年の東ローマの滅亡後、多くの学者たちが西ヨーロッパへ流れていきました。

それによってギリシア・ローマの古典文化が見直されること=つまり古典文化の「再生」運動がおこります。ルネッサンスは( Rinascimento )「再生」という意味なのです。もちろん、当時からルネッサンスと呼んでいたわけではなく、後世の歴史学者があとから「ルネッサンス」と名づけたものです。

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ルネッサンスの最盛期は14~16世紀とされ、ローマではヴァチカンの教皇、フィレンツェではメディチ家( Medici )、ミラノではスフォルツァ( Sforza )家などが芸術家のパトロンとなって、画家・彫刻家のミケランジェロ( Michelangelo )、ダヴィンチ( Leonardo da Vinci )、建築家のブルネレスキ( Filippo Brunelleschi )などの天才的芸術家たちを擁護しました。

 

あわせてブログ記事「ルネッサンス→」もどうぞ

 

 

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ルネッサンスⅠ

ルネッサンス時代

1453年の東ローマ帝国の滅亡によって、歴史的には「中世」( mediovale )という時代は終りとされます。14~16世紀は、イタリア史でも燦然と輝くルネッサンス( Rinascimento )の時代ですが、ルネッサンスというのは文化芸術の話が中心で、実際のところイタリア半島は戦乱の時代でした。

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中世の末期の15世紀になってもイタリアは政治的なまとまりがなく、中央集権的な権力といえばローマ教皇か、南部のシチリア王国ぐらいのものでした。

あとはハプスブルグ家、ブルボン家などの支配を受けたり、自治都市のコムーネ( comune )が各地に作られます。ヴェネツィア共和国( Repubblica di Venezia )や、ナポリ王国( regno di Napoli )などは独立した国家でした。

16世紀前半にはイタリアの統治をめぐって、主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国皇帝・スペイン王)とヴァロワ家(フランス)の間でイタリア戦争( Guerre d’Italia del XVI secolo )が起きており、ルネッサンスの時代が芸術に勤しんだ平穏な時代ではないことがわかります。

 

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シチリア王国

シチリア王国の歴史

これまでイタリアの歴史をつづってきましたが、イタリア半島の先にあるシチリア島( Sicilia )は地中海に浮かぶ島として、ちょっと変わった歴史をもっています。

もともとこの地には先住民族としてフェニキア人( Fenici )がおりましたが、紀元前8世紀頃からは古代ギリシャの中心地のひとつとなります。三平方の定理で有名な数学者アルキメデスもこの地の出身です。シチリア島には今でも多くのギリシア神殿が残っています。

紀元前4世紀には、北アフリカを拠点にしていたカルタゴの支配下となり、その後は、ローマ帝国、東ゴート、東ローマ帝国による支配を受けます。9世紀にはアラブ人によって侵入され征服されました。イスラム教徒による支配にあっても、多様な文化や宗教は共存していたのがシチリアの特徴的なところです。

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ノルマン王朝時代の宮殿 Palazzo Reale

そののちの11世紀、ノルマン人( Normanni )のバイキングの侵略があり、1130年にはシチリア王国( Il Regno di Sicilia )が成立しました。ここでもイスラム教やギリシア正教やカトリックが共存していました。学問や芸術に対する造詣が深いインテリのノルマン王ルッジェーロ2世( Ruggero Ⅱ )や、その後のフェデリーコ1世( Federico Ⅰ )といった王は、多様な文化と宗教の中での統治者として近代的な感覚の持ち主であったと伝えられています。

その後は、スペインのアラゴン王家、スペイン・ハプスブルク家、スペイン・ブルボン家の分家など、主としてスペインに統治されるようになった歴史があります。

 

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中世とは?(5~15世紀頃)

中世とは?

「中世( mediovale )」という言葉をよく聞きます。「中世ヨーロッパ」「中世イタリア」というように。この「中世」とは、ヨーロッパの歴史的には476年の西ローマ帝国の滅亡から~1453年の東ローマ帝国の滅亡あたりを指すようです。

この1~3世紀の古代ローマ帝国と、14世紀のルネッサンスのあいだの1000年ほどは、イタリアの歴史には特に芸術・文化で目立ったものがありません。

ローマカトリック教会がかなり権力として力をもっていたため、信仰の厳しさ、封建制度、異端審問、ペストの流行、そしてビザンツ帝国やイスラム教国の発展を遂げていたのに比較して「暗黒の中世」などと呼ばれるようです。

 

 

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中世のはじまり(5~10世紀頃)

西ローマ帝国の滅亡後

476年の西ローマ帝国の滅亡後、イタリアには北部からランゴバルト族( longobardo )が侵入して勢力を強めました。

また、ローマカトリック教会も台頭して、ローマ教皇が権力をもち、イタリアは王国や公国なども乱立するようになります。政治的には何ら統一されていないばらばらの時代がはじまります。

ただ、そんな乱立の時代も、ローマカトリック教会だけは安定した権力を誇りました。

 

神聖ローマ帝国の誕生

800年には、フランク族のカール大帝がローマで戴冠し、神聖ローマ帝国( Sacro Romano Impero )が誕生します。

しかしこの「ローマ」はローマ帝国の継承者という意味だけで、実質イタリアは教皇や都市国家による政治が各地で行われました。神聖ローマ帝国の中心は、ドイツ・オーストリアであり、イタリアを自分の領土だと主張する教皇とも対立しました。

 

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古代ローマの衰退と分裂(3~5世紀頃)

ローマの衰退

パクスロマーナ( Pax romana、「ローマの平和」)は、紀元180年まで続きました。その後は、栄華を誇った古代ローマ帝国も、異民族の侵入や内部の反乱で衰退していきます。

この時代に、紀元前後に生まれたキリストとその弟子たちによって、キリスト教が生まれ、普及していきました。4世紀前半の皇帝コンスタンティヌスは、313年にキリスト教を公認しました。

この皇帝は、コンスタンティノープル( Constantinopoli 、現在のイスタンブール(写真下))を建設したことでも知られています。

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衰退したローマ帝国は、395年、東西分裂をします。東ローマ帝国( Impero bizantino, Impero romano d’Oriente ビザンツ帝国)はコンスタンティノープルを首都とし、その後1000年栄華を誇りました。

一方、西ローマ帝国はローマを首都としますが、476年には滅亡しました。この時期からルネッサンスあたりの時代は中世( mediovale )と呼ばれています。

 

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「ラグーザお玉」 その2

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シチリアという異文化の中で

ラグーザお玉さんは、明治から昭和初期にかけて、50年間、イタリアのシチリアで暮らしました。よく、この頃に外国へ渡った人の苦労話には「人種差別にあった、異文化に慣れるのに苦労した」といったことが多いのものです。

ところが、ラグーザお玉さんの自叙伝にはそうしたことが書かれていません。もちろん人知れず苦労はあったでしょうが、彼女は、「日本人として特別に扱われるというようなことは一向ございませんでした。・・・(中略)・・・町の人々も、特に日本人だからという変わった待遇を致しませんで、全くその土地の者同様に認めてくれ、尊敬してくれました。」と話されています。

 

異文化に慣れたシチリア

これは彼女の人間性のみならず、歴史的に異文化が交じり合ってきたシチリアの風土によるところもあるのではないか、と感じます。また、彼女は50年間のイタリア滞在中、出会った日本人が「10人ほど」で、日本語すら忘れてしまいました。しかし、肝心の「イタリア語」に関しては、苦労話も含め、ほとんど記述がないのです。それだけ、「再び日本へ帰るまいと決心した」彼女がイタリアでの生活に馴染んだからでしょう。

よく「日本人は英語がなぜできないか?」という議論がされますが、そうした決心や覚悟があるのかどうかも考えてみてもいいかもしれません。

余談ですが、ラグーザお玉さんと夫の名前からとられた高校がシチリアにあります。

 

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「ラグーザお玉」 その1

ラグーザお玉さんとは?

「ラグーザお玉」という方をご存じでしょうか? 明治の日本人女性で、画家です。明治初年から東京美術学校の教授をしていたイタリア人、ヴィンチェンツォ・ラグーザに見初められ、明治15年に結婚してイタリアへ渡り、その後、50年間イタリアのシチリア島にあるパレルモで暮らされた方です。国籍も、「イタリア人」になってしまわれた女性画家です。

なぜこの女性を紹介するかというと、この方がイタリア語に堪能であったことはもちろん(50年もいれば当り前ですが…)、さまざまなエピソードがとても面白いのです。なにせ、「人力車が走るか走らない頃」に日本を発ち、52年後に日本に帰って来られたのですから、浦島太郎みたいなものです。このことは恒文社の「ラグーザお玉自叙伝(木村毅編)」に詳しく書かれています。

そのエピソードのひとつをご紹介します。

 

日本語を忘れたものの…

ラグーザお玉さんは、日本人などほとんどいないイタリアの地方で、長い年月、生活をしていたため、52年ぶり(!)に日本へ帰ったときは、「日本語を忘れていた」そうです。しかし、ここからが、感動的です…。

「しかし神戸でいったん、日本の宿屋へ落ちつきますと、私は、子供の時に描きました自分の画稿を沢山見せられて、たちまちに沢山の日本語を取り戻しました。」

匂いやメロディーで何かを思い出したりすることがありますが、人間の感覚って不思議だな、と思います。

ラグーザお玉さんは、イタリアそのものに入り込んだという意味では、もしかすると初めての日本人女性ではないでしょうか?(「ラグーザお玉」 その2 へ続く

 

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帝政ローマ(1~3世紀頃)

帝政ローマ(パクスロマーナ)

カエサルが暗殺されたあと、ローマではオクタヴィアヌス( Octavianus )が皇帝アウグストゥス( Augustus 下写真)として即位しました。

このときが紀元前27年、以後約200年間、ローマ帝国は安定の時代を迎え、この時期はパクスロマーナ( Pax Romana )「ローマの平和」と呼ばれています。

アウグストゥス

ハドリアヌス帝( Hadrianus )のときにローマ帝国の領土は最大となり、現在の北アフリカ、イギリス、スペイン、トルコまでもその領土となりました。

 

ローマの遺跡の数々

ローマにはコロッセオ( Colosseo  )、パンテオン( Pantheon )など、かぞえきれないほどの遺跡がありますが、それはこの当時に立てられたものがほとんどです。下水道、橋、道路、神殿、浴場、劇場、競技場など、当時の建築技術には目を見張るものがあります。

ちなみに、7月、8月のことを英語、イタリア語でそれぞれ、july luglio、august agostoといいますが、これはジュリウス( Julius )・シーザーと、アウグストゥス( Augustus )にちなんでいます。

⇒ブログ「ローマ皇帝と7、8月」の記事もあわせてどうぞ

また、一瞬のうちに火山灰の下に埋没した都市にポンペイ( Pompei )の遺跡がありますが、ヴェスヴィオ火山( Vesuvio )の噴火もこの時代の紀元79年です。

 

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シーザー(カエサル)の登場(紀元前1世紀)

カエサル(シーザー)の登場

共和制ローマは、戦争により現在のイタリア半島以外のヨーロッパ、東ヨーロッパ、北アフリカへと領土を拡大していきました。内乱状態にありましたが、その中で登場したのが、軍事的英雄として知られるカエサル( Gaio Giulio Cesare  紀元前100年頃 – 紀元前44年、写真下)です。

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皇帝となったカエサル

カエサルは、エジプト、スペインなどへの遠征をしていますが、特にガリア( Gallia、現在のフランス周辺)を制圧したことで知られています。このガリア遠征はカエサルが綴った『ガリア戦記』( Commentarii de Bello Gallico )として記録されています。

当時、内乱状態にあった共和制ローマで、終身の独裁官( dittatore )、つまり「皇帝」であるエンペラー( imperatore )となったことで、共和制ローマ( Repubblica Romana )は実質的に終わりを告げたとされます。

カエサルは紀元前44年、腹心であり養子のブルートゥスによって暗殺されました。『ブルータス、お前もか』( Et tu, Brutus? )という言葉はあまりに有名ですね。

 

カエサルのイタリア語はCesare

イタリア語では、シーザーともカエサルとも言わず、チェーザレ( Cesare )と呼びます。また、ドイツ語の「皇帝」をあらわす( Kaiser )の語源にもなっています。

⇒カエサルに関わる記事「帝王切開とタリアテッレ」はこちら

 

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