18.第二次世界大戦と戦後

1945年、ムッソリーニが逮捕、処刑されたのに続き、ドイツの独裁者であったヒトラーも5月に自殺をして、第二次世界大戦は集結していきます。

ムッソリーニ政権の崩壊後、イタリアはレジスタンス活動、パルチザン(ゲリラ)活動などで内戦状態ともなりましたが、1946年に王制が廃止され、1948年には現在のイタリア共和国( La Repubblica Italiana )の憲法が制定されました。

ムッソリーニの対外侵略としては、東ヨーロッパに位置するアルバニアへの侵攻、そしてアフリカの植民としてはエチオピア(~41年まで植民地)、エリトリア、ソマリア(~60年)がありました。イタリアはこの大戦を通して50万人以上(日本は約310万人)の犠牲者を出しました。戦後の1947年、パリ平和条約によって連合国と講和条約を結びました。


17.ムッソリーニと第二次世界大戦

第一次大戦後の世界的な不況の中、台頭したのがムッソリーニでした。ジャーナリストであったベニト・ムッソリーニ( Benito Amilcare Andrea Mussolini, 1883-1945年)は、1919年にのちのファシスト党( Partito Nazionale Fascista )となる党を結成しました。この党は1943年まで続くイタリアの独裁政権となりました。

ムッソリーニは1922年にクーデターとしてローマ進軍を行って政権を握ります。1940年、イタリアは日独伊三国同盟にも調印し、ドイツとともにイギリス、フランスら連合国と開戦しました。

しかし1943年には連合国軍のシチリア上陸を許したのち、ムッソリーニ政権は崩壊してイタリアは無条件降伏します。ムッソリーニは1945年に逮捕されて処刑されました。


16.第一次世界大戦

1914年には、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まりました。イタリアは、トリエステ( Trieste )など国境部の問題からオーストリアと対立していたため、イギリスとフランスと秘密協定を結びました。

第一次世界大戦は、イギリスとフランスなどの連合国が勝利したため、イタリアはオーストリアからトリエステ、南チロルなどの領土を獲得しました。

ただしイタリア王国ができてからというものイタリアが主張していた領土(現在のクロアチアなど)は回収できず、「未回収のイタリア」( Italia irredenta )といわれています。

第一次世界大戦で疲弊したイタリアは失業者が増加し、国民の不満は募りました。そんな中、台頭してきたのが、ムッソリーニのファシズムでした。


15.イタリア統一後

1861年に統一したイタリアはイタリア王国としてトリノ( Torino )を首都としましたが、現在の領土ではなくヴェネツィアやローマはあとから領土となりました。

ヴェネツィア( Venezia )は1866年の普墺戦争、ローマ( Roma )は1870年の普仏戦争によって併合しました。ローマが現在のような首都になったのは1871年になってからのことです。

19世紀は、アフリカ・アジアへの植民地化を行うヨーロッパの帝国主義の時代でした。イタリアも1896年にはエチオピアに侵攻しましたが、植民地化には失敗しました。


14.リソルジメント(イタリア統一)Ⅱ

イタリアの統一運動は、北部イタリアはサルデーニャ王国を中心に展開されます。1859~61年にかけては、オーストリアとの激しい戦争に勝利し、ヴェネト地方を除いた北イタリアを統一しました。

一方、南部イタリアは、リソルジメントの英雄である軍人ガリバルディ( Giuseppe Garibardi )が大きく貢献します。1860年、シチリアでの反乱を機に、千人隊を組織してスペインのブルボン家の支配していた両シチリア王国を滅ぼしました。そして、征服地である南イタリアをサルデーニャ王国のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上しました。

これによって、1861年、サルデーニャ王国によるイタリア統一(リソルジメント)が達成されました。イタリアの国王には、サルデーニャ国王であったヴィットーリオ・エマヌエーレ2世( Vittorio Emanuele Ⅱ )が即位しました。2011年はこのイタリア建国150周年を迎えました。

ガリバルディは文字通り英雄で、イタリアの各地の通りには彼の名前がつけられ、多くのモニュメントがあります。彼の軍隊は、約1000人の義勇兵を集めたことから千人隊( La Spedizione dei Mille )、または、兵士に赤いシャツを着せたことから「赤シャツ隊」( Camicie rosse )とも呼ばれます。これほどの功績のあった人物ですが、政治家にもならず、受勲も拒んだといわれています。

ガリバルディのイタリア語の授業です!(Studente.itという学生サイトより)


13.リソルジメント(イタリア統一)

1814年のナポレオン体制の崩壊後は、イタリアはまた地方ごとの、元の公国(北西イタリアはサヴォイア家のサルデーニャ王国、北東はオーストリア帝国、シチリアはスペインのブルボン家など)に戻ったものの、ナポレオンの侵略による国家統一は「イタリア」という独立国家への夢をもたらしました。

1820年ごろから各地で暴動が起きるようになり、その初期のグループには秘密結社カルボナリ(  Carbonari )、ジュゼッペ・マッツィーニ( Giuseppe Mazzini )率いる青年イタリア(  La Giovine Italia )があります。イタリア国家統一、つまりイタリア憲法制定のための運動は次第に大きくなりました。

その運動の中で発行された新聞が「リソルジメント(  Il Risorgimento )」で、今ではイタリア統一運動全体を「リソルジメント」と呼びます。

イタリアの統一運動の中心となったのは、サルデーニャ王国(サルデーニャとピエモンテが領土)の首相カヴール(  Camillo Benso, Conte di Cavour )でした。1859年、カヴールはフランスとも手を組み、オーストリア帝国からロンバルディアなど北イタリアを奪います。北部イタリアは、このサルデーニャ王国を中心に統一運動が展開されました。(明日に続きます)

リソルジメントのイタリア語の授業です!(Studente.itという学生サイトより)


12.ナポレオンの登場

ルネッサンス、宗教改革のあとの17、18世紀ともイタリアの状況は、スペイン・オーストリアといった王家の支配下にありました。

18世紀末に登場したフランスの将軍ナポレオン・ボナパルト( Napoleone Bonaparte )は、イタリアにも侵入をしました。その当時北イタリアは教皇やオーストリアへの不満が強く、かえってナポレオンは解放者とされました。

その後、ナポレオンは教皇領であったローマも侵略し、1805年、彼はイタリア王国の皇帝ともなりました。このことは当時バラバラであったイタリアがナポレオンによって統一されてことを意味し、のちのイタリア統一運動へのきっかけとなりました。

ナポレオンのイタリア語の解説です!(Studente.itという学生サイトより)


11.宗教改革

中世以降の大きな動きであるルネッサンスとならんで、もう一つ革新的な運動としてあげられるのが宗教改革( Riforma protestante )です。これはドイツからはじまり、ヨーロッパ全土に広がりました。

権力闘争に明け暮れ世俗化し、堕落しつつあったローマ・カトリック教会への不満から起こった運動です。今一度聖書の教義に立ち戻る「ルネサンス的運動」ともいわれています。

この運動は、当時ローマ教会が売っていた証明証である「贖宥状(しょくゆうじょう)」( indulgenza )をドイツのマルティン・ルターが批判したことがきっかけといわれています。贖宥状とは、罪の償いを軽減する証明書で「免罪符」ともいわれます。

この宗教改革によって、プロテスタントとカトリックが対立し、ヨーロッパ全土で争うことになりました。

 


10.ルネッサンスⅡ

ギリシャ・ローマ古典文化の再生

東ローマ帝国では古代ギリシャ文化の研究が盛んになっており、1453年の東ローマの滅亡後、多くの学者たちが西ヨーロッパへ流れていきました。

それによってギリシア・ローマの古典文化が見直されること=つまり古典文化の「再生」運動がおこります。ルネッサンスは( Rinascimento )「再生」という意味なのです。もちろん、当時からルネッサンスと呼んでいたわけではなく、後世の歴史学者があとから「ルネッサンス」と名づけたものです。

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ルネッサンスの最盛期は14~16世紀とされ、ローマではヴァチカンの教皇、フィレンツェではメディチ家( Medici )、ミラノではスフォルツァ( Sforza )家などが芸術家のパトロンとなって、画家・彫刻家のミケランジェロ( Michelangelo )、ダヴィンチ( Leonardo da Vinci )、建築家のブルネレスキ( Filippo Brunelleschi )などの天才的芸術家たちを擁護しました。

 

あわせてブログ記事「ルネッサンス→」もどうぞ

 

 


9.ルネッサンス

ルネッサンス時代

1453年の東ローマ帝国の滅亡によって、歴史的には「中世」( mediovale )という時代は終りとされます。14~16世紀は、イタリア史でも燦然と輝くルネッサンス( Rinascimento )の時代ですが、ルネッサンスというのは文化芸術の話が中心で、実際のところイタリア半島は戦乱の時代でした。

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中世の末期の15世紀になってもイタリアは政治的なまとまりがなく、中央集権的な権力といえばローマ教皇か、南部のシチリア王国ぐらいのものでした。

あとはハプスブルグ家、ブルボン家などの支配を受けたり、自治都市のコムーネ( comune )が各地に作られます。ヴェネツィア共和国( Repubblica di Venezia )や、ナポリ王国( regno di Napoli )などは独立した国家でした。

16世紀前半にはイタリアの統治をめぐって、主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国皇帝・スペイン王)とヴァロワ家(フランス)の間でイタリア戦争( Guerre d’Italia del XVI secolo )が起きており、ルネッサンスの時代が芸術に勤しんだ平穏な時代ではないことがわかります。

 


8.シチリア王国

シチリア王国の歴史

これまでイタリアの歴史をつづってきましたが、イタリア半島の先にあるシチリア島( Sicilia )は地中海に浮かぶ島として、ちょっと変わった歴史をもっています。

もともとこの地には先住民族としてフェニキア人( Fenici )がおりましたが、紀元前8世紀頃からは古代ギリシャの中心地のひとつとなります。三平方の定理で有名な数学者アルキメデスもこの地の出身です。シチリア島には今でも多くのギリシア神殿が残っています。

紀元前4世紀には、北アフリカを拠点にしていたカルタゴの支配下となり、その後は、ローマ帝国、東ゴート、東ローマ帝国による支配を受けます。9世紀にはアラブ人によって侵入され征服されました。イスラム教徒による支配にあっても、多様な文化や宗教は共存していたのがシチリアの特徴的なところです。

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ノルマン王朝時代の宮殿 Palazzo Reale

そののちの11世紀、ノルマン人( Normanni )のバイキングの侵略があり、1130年にはシチリア王国( Il Regno di Sicilia )が成立しました。ここでもイスラム教やギリシア正教やカトリックが共存していました。学問や芸術に対する造詣が深いインテリのノルマン王ルッジェーロ2世( Ruggero Ⅱ )や、その後のフェデリーコ1世( Federico Ⅰ )といった王は、多様な文化と宗教の中での統治者として近代的な感覚の持ち主であったと伝えられています。

その後は、スペインのアラゴン王家、スペイン・ハプスブルク家、スペイン・ブルボン家の分家など、主としてスペインに統治されるようになった歴史があります。

 


7.中世とは?(5~15世紀頃)

中世とは?

「中世( mediovale )」という言葉をよく聞きます。「中世ヨーロッパ」「中世イタリア」というように。この「中世」とは、ヨーロッパの歴史的には476年の西ローマ帝国の滅亡から~1453年の東ローマ帝国の滅亡あたりを指すようです。

この1~3世紀の古代ローマ帝国と、14世紀のルネッサンスのあいだの1000年ほどは、イタリアの歴史には特に芸術・文化で目立ったものがありません。

ローマカトリック教会がかなり権力として力をもっていたため、信仰の厳しさ、封建制度、異端審問、ペストの流行、そしてビザンツ帝国やイスラム教国の発展を遂げていたのに比較して「暗黒の中世」などと呼ばれるようです。

 

 


6.中世のはじまり(5~10世紀頃)

西ローマ帝国の滅亡後

476年の西ローマ帝国の滅亡後、イタリアには北部からランゴバルト族( longobardo )が侵入して勢力を強めました。

また、ローマカトリック教会も台頭して、ローマ教皇が権力をもち、イタリアは王国や公国なども乱立するようになります。政治的には何ら統一されていないバラバラの時代がはじまります。

ただ、そんな乱立の時代も、ローマカトリック教会だけは安定した権力を誇りました。

 

神聖ローマ帝国の誕生

800年には、フランク族のカール大帝がローマで戴冠し、神聖ローマ帝国( Sacro Romano Impero )が誕生します。

しかしこの「ローマ」はローマ帝国の継承者という意味だけで、神聖ローマ帝国の中心は、ドイツ・オーストリアでした。イタリアでは、教皇や都市国家による政治が各地で行われ、イタリアを自分の領土だと主張する教皇とも対立しました。

 


5.古代ローマの衰退と分裂(3~5世紀頃)

ローマの衰退

パクスロマーナ( Pax romana、「ローマの平和」)は、紀元180年まで続きました。その後は、栄華を誇った古代ローマ帝国も、異民族の侵入や内部の反乱で衰退していきます。

この時代に、紀元前後に生まれたキリストとその弟子たちによって、キリスト教が生まれ、普及していきました。4世紀前半の皇帝コンスタンティヌスは、313年にキリスト教を公認しました。

この皇帝は、コンスタンティノープル( Constantinopoli 、現在のイスタンブール(写真下))を建設したことでも知られています。

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衰退したローマ帝国は、395年、東西に分裂します。東ローマ帝国( Impero bizantino, Impero romano d’Oriente ビザンツ帝国)はコンスタンティノープルを首都とし、その後1000年栄華を誇りました。

一方、西ローマ帝国はローマを首都としますが、476年には滅亡しました。この時期からルネッサンスあたりの時代は中世( mediovale )と呼ばれています。

 


4.帝政ローマ(1~3世紀頃)

帝政ローマ(パクスロマーナ)

カエサルが暗殺されたあと、ローマではオクタヴィアヌス( Octavianus )が皇帝アウグストゥス( Augustus 下写真)として即位しました。

このときが紀元前27年、以後約200年間、ローマ帝国は安定の時代を迎え、この時期はパクスロマーナ( Pax Romana )「ローマの平和」と呼ばれています。

アウグストゥス

ハドリアヌス帝( Hadrianus )のときにローマ帝国の領土は最大となり、現在の北アフリカ、イギリス、スペイン、トルコまでもその領土となりました。

 

ローマの遺跡の数々

ローマにはコロッセオ( Colosseo  )、パンテオン( Pantheon )など、かぞえきれないほどの遺跡がありますが、それはこの当時に立てられたものがほとんどです。下水道、橋、道路、神殿、浴場、劇場、競技場など、当時の建築技術には目を見張るものがあります。

ちなみに、7月、8月のことを英語、イタリア語でそれぞれ、july luglio、august agostoといいますが、これはジュリウス( Julius )・シーザーと、アウグストゥス( Augustus )にちなんでいます。

⇒ブログ「ローマ皇帝と7、8月」の記事もあわせてどうぞ

また、一瞬のうちに火山灰の下に埋没した都市にポンペイ( Pompei )の遺跡がありますが、ヴェスヴィオ火山( Vesuvio )の噴火もこの時代の紀元79年です。

 


3.シーザー(カエサル)の登場(紀元前1世紀)

カエサル(シーザー)の登場

共和制ローマは、戦争により現在のイタリア半島以外のヨーロッパ、東ヨーロッパ、北アフリカへと領土を拡大していきました。内乱状態にありましたが、その中で登場したのが、軍事的英雄として知られるカエサル( Gaio Giulio Cesare  紀元前100年頃 – 紀元前44年、写真下)です。

julius_caesar

皇帝となったカエサル

カエサルは、エジプト、スペインなどへの遠征をしていますが、特にガリア( Gallia、現在のフランス周辺)を制圧したことで知られています。このガリア遠征はカエサルが綴った『ガリア戦記』( Commentarii de Bello Gallico )として記録されています。

当時、内乱状態にあった共和制ローマで、終身の独裁官( dittatore )、つまり「皇帝」であるエンペラー( imperatore )となったことで、共和制ローマ( Repubblica Romana )は実質的に終わりを告げたとされます。

カエサルは紀元前44年、腹心であり養子のブルートゥスによって暗殺されました。『ブルータス、お前もか』( Et tu, Brutus? )という言葉はあまりに有名ですね。

 

カエサルのイタリア語はCesare

イタリア語では、シーザーともカエサルとも言わず、チェーザレ( Cesare )と呼びます。また、ドイツ語の「皇帝(カイザー)」をあらわす( Kaiser )の語源にもなっています。

⇒カエサルに関わる記事「帝王切開とタリアテッレ」はこちら

 


2.ポエニ戦争とハンニバル(ローマ共和制)(前6~2世紀)

ポエニ戦争

ローマでは、紀元前509年に共和制ローマ( Repubblica Romana )が成立しました。共和制では、当時2つ統治組織があったことで知られています。一つは「パトリキ」( Patricii )という貴族や政治家による元老院です。もう一つは市民の「プレブス」( Plebs )です(ちょうど日本の参議院と衆議院のようですね)。

共和政ローマは、次第に戦争による領土拡大へと向かいます。紀元前3~2世紀には、地中海の覇権を争ってポエニ戦争( Le Guerre Puniche )が行われました。

 

アルプス越えで知られるハンニバル将軍

ポエニ戦争では、現在のチュニジア(アフリカ北東)に位置するカルタゴの将軍ハンニバル( Annibale Barca )との戦いが特に知られています。ハンニバルはアフリカから像を率いて、地中海からではなく、スペインのピレネー山脈、スイスのアルプス山脈を越えて、イタリアに攻め込んだという伝説的将軍です。

結果的にローマがこのポエニ戦争にも勝利しました。戦争を通して、ローマは現在のイタリア半島のみならず、ギリシア・北アフリカなども領土として支配を拡大していきました。


ハンニバル将軍のドキュメンタリー「Impero Annibale Barca」をどうぞ!


1.ローマの建国(前8~6世紀)

イタリアの先住民族はエトルリア人

イタリア半島にはもともと先住民族としてエトルリア( Etruschi )人が住んでおり、エトルリア( Etruria )文明と呼ばれます。

エトルリア人はインド・ヨーロッパ語族に属さない独自のエトルリア語を使用していた民族で、その後登場してきたローマの勢力が強くなるとともに消滅、あるいは同化していったとされます。

イタリアで考古学博物館( Museo Archeologico )に行くと、エトルリア文明の土器などが展示してあるのをよく見かけます。

 

ローマ建国は双子ロムルスとレムス

エトルリア文明のあと、伝説によると紀元前753年にロムルスとレムス( Romulus Remus )という狼(写真下)によって育てられた双子によってローマが建設されたといわれています。「 Roma 」という名前はこの Romulus が由来になっています。

ロムルスとレムス


初代ローマ王のロムルス以降、7代の王によって統治(王政ローマ)されていましたが、紀元前509年、7番目の王タルクィニウス・スペルブスが追放されて、共和政ローマが成立しました。

 


イタリアの歴史

旅でも役立つ!速習イタリア史

イタリアの歴史イタリア語とともに、まずはイタリアの歴史をカンタンに学んでみませんか?

歴史を知るだけで旅の楽しみが倍増

イタリアはどの街を訪れるにしても、古代ローマやルネッサンスといったイタリア史を少し知っているだけで、何倍にも旅を楽しむことができます。

遺跡、モニュメント、広場、街並み、郷土料理、教会、・・・そのいずれをとってもイタリアの歴史が色濃く反映されています。

ここでは、イタリアの歴史をカンタンに学べるよう「誰でも読めるやさしいイタリア史」を綴ってみました。

1.ローマの建国(前8-6世紀)

2.ポエニ戦争とハンニバル(ローマ共和制)(前6-2世紀)

3.シーザ(カエサル)の登場(前1世紀)

4.帝政ローマ(1-3世紀)

5.古代ローマの衰退と分裂

6.中世のはじまり

7.中世とは?

8.シチリア王国

9.ルネッサンス

10.メディチ家とルネッサンス(Rinascimento)

11.宗教改革

12.ナポレオンの登場

13.イタリア統一への動き risolgimento

14.イタリア王国(統一)

15.ローマ遷都と帝国主義(植民地)

16.第1次世界大戦

17.ムッソリーニと第2次大戦

18.第二次世界大戦後

 


黄金比とフィボナッチ数列

「黄金比」とフィボナッチ数列

美しい長方形のタテとヨコの比率は「黄金比」といわれ、数列やイタリアの数学の歴史に関係があるようです。数列の問題も用意してもらいましたので、ぜひチャレンジして下さい。

レオナルド・フィボナッチとは…

レオナルド・フィボナッチ(Leonardo Fibonacci 1170頃~1250頃)はイタリア・ピサで生まれ、エジプト、ギリシャ等を旅行して数学を学びました。ヨーロッパで学んだ内容を本にして出版し、数学をヨーロッパに本格的に広めた人物です。この本に記載されている数列がフィボナッチ数列として有名です。

フィボナッチ数列は、0、1から始まり、前の2つを足し合わせて作られる次の数列のこと。
0、1、1、2、3、5、8、13、・・・
自然界と関係の深い数列・数です。

自然界にも見られるフィボナッチ数列

ミツバチの家系をたどると子ども、その子どもの数はフィボナッチ数列となりますし、ほかにも花びらの枚数、木の枝分かれ、まつぼっくりのまつかさ,ひまわりのたねの配列などに、フィボナッチ数列の数が現れます。

フィボナッチ数列の隣り合う二つの数の比はだんだんと黄金比(1:1.618)に近づきます。


Fibonacci最も美しい黄金比

 

黄金比は(宇宙で)最も安定し美しい比率といわれており、パルテノン神殿やピラミッドといった歴史的建造物、美術品の中にも数多く潜んでいます。

イタリアのルネサンス期を代表する芸術家、レオナルド・ダ・ビンチも黄金比を発見していた記録があり、彼の作品の中にも多くの黄金比が潜んでいます。黄金比も同様に自然界と密接に関係していて、植物の葉の並び方や巻き貝の中にも黄金比を見つけることができます。惑星の軌道にも黄金比が関連あるとか。名刺、パスポート、本などの縦横比にも黄金比をみることができます。

フィボナッチ数列に関連した問題です。

ちなみに、この問題は1994年灘中の算数の入試問題です。超難関校の問題ですが、この問題は難問ではないので、ぜひチャレンジしてみてください。解いていくと、フィボナッチ数列に出会えるでしょう。

 

[ 問 題 ]

1辺の長さが1cmの正方形Aがある。

図のように、Aと1辺を接する正方形①をAの右へ描いて長方形を作る。次にその下へ1辺を接する正方形②を描いて長方形を作る。さらに、その右へ正方形③を描いて長方形を作る。
この操作を繰り返し行うとき、次の各問の□に適する数を記入せよ。 nada

(1)正方形⑥の1辺の長さは(  )cmである。
(2)正方形⑦を描いて作った長方形の面積は(  )cm2である。
(3)正方形㋐を描いて作った長方形の面積が初めて40000cm2を超えたという。アは(  )のときである。

解答・解説は下↓

 

 

 

答え (1) 13  (2) 714  (3) 12

次のような表を作成すると、(1)、(2)の回答が得られます。

番号
一辺の長さ(cm) 1 2 3 5 8 13 21 34 55 89 144 233
長方形の面積
(cm2)
1㎝
×
2㎝
2
×
3
3
×
5
5
×
8
8
×
13
13
×
21
21
×
34
34
×
55
55
×
89
89
×
144
144
×
233
233
×
377

また(3)は、面積が40000cm2(=200cm×200cm)を超えたときなので、⑪か⑫であることが予想されます。

あとは計算して

⑪番目の長方形では、144×233=33552(cm2)、

⑫番目の長方形では、233×377=87841 (cm2)となるので、⑫が答えとなります。

表から、1辺の長さの縦横それぞれにフィボナッチ数列が現れることがわかります。

この問題はフィボナッチ数列の典型的な問題と言えますが、計算だけで十分に解ける問題になっているので、中学入試問題として出題されているわけです。フィボナッチ数列の本格的な問題(一般項を求めるなど)となると、現在では高校数学の範囲も越えます。

ちなみに、100番目などn番目の長方形の長さを知りたい場合は下の式のnに100などの数を代入して計算してみてください。(フィボナッチ数列の一般項です。)

Fibonacci_Fn

 

 

ここで、

ougonhi

 

 

ですので、黄金比の数が現れます。

自然界(宇宙)に存在する、フィボナッチ数列と黄金比は数式でもつながりを確認することができました。

Leonardo FibonacciのWEBサイトはこちら

執筆者 松本リサ

1984年東京生まれ。東京理科大学院工学研究科修士課程修了。小さい頃から数学好きで、大学・大学院では数学を応用した統計学を主に研究 (Journal of Probability and Statistics 2009The Pharmacogenomics Journal)。 現在はアクセンチュア株式会社に勤務。