ヴェネツィアの黄金の球

ヴェネツィアの黄金の球

黄金の球(Venezia)

オーストリアの詩人・ホフマンスタールの「美しい日々の思い出」の舞台となったヴェネツィア。今回はこの街のある「像」にスポットを当てます。

オーストリア詩人を魅了したヴェネツィア

イタリアには美しい町が多い。ナポリにジェノヴァにミラノ、フィレンツェ……とすぐにいくつもの名前があがるなかで、私はヴェネツィアこそが一番だと思う。ヴェネツィアを訪れた詩人たちの紀行文も断然すぐれているし、なかでも好きなのは、世紀末ウィーンの詩人ホフマンスタールの「美しい日々の思い出」である。

著作「美しい日々の思い出」

この文章は“私”がカタリーナという少女とその弟フェルディナンドをつれてヴェネツィアの裏手の暗い水路から小船に乗って入り、サンジェミニアーノのアーケードからいきなりサンマルコ寺院の前に出る。折しも西日のあたる壮麗な広場をまのあたりにした少女は「これ本当なの?」「本当に本当なの?」と叫ぶ。

Basilica Sante Maria della Salute

黄金の玉の上に乗る男?

三人は広場と広場をかこむ寺院や塔やこれにつらなる建物を仰ぎ見たのち、小広場へ出て夕映の海の眺めに見入る。<今や、すべてが焔(ほのお)に包まれていた><黄金(きん)の球の上に乗る男が燃えていた>と詩人は書く。

 

その正体とは?

ところが<黄金の球の上に乗る翼持つ男>は権威ある文学全集でもよく間違えている箇所である。ホフマンスタールでさえ、よく知らずに書いたらしく、「翼」に見えたのは“角盃(かくはい)と船の舵(かじ)”であり、“男”は男ではなく“運命の女神”なのであった。その場所はサンマルコ広場の対岸、大運河の対岸にあるサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会の東側に突き出した海運税関(Dogana da Mar)の屋上である。屋上に置かれたのは見事な黄金色の球に乗る“翼持つ男(女神)”。(写真左)

この像に気づく人は少ないし、その正体を知る人はもっと少ないだろう。そうした人間の一人として私はヴェネツィアに行くとまずこの黄金色の球を確認し、ヴェネツィアの本体に出会ったという思いにひたる。

ホフマンスタールも書いているように、黄金の球とともに輝くのは当の瞬間のみの太陽ではない。過ぎ去った年々の、いや幾世紀も昔からの太陽なのである。

(ドイツ文学者/松本道介)

「チャンドス卿の手紙」 他十篇 (岩波文庫)
ホフマンスタール (著), 桧山 哲彦 (翻訳)  
ここでご紹介した「美しい日々の思い出」は、「チャンドス卿の手紙」の中に収められています。


michisuke松本道介(文芸評論家)

1935年北海道生まれ。東京大学大学院修士課程修了。熊本大学、國學院大学を経て中央大学に32年勤務。中央大学名誉教授。文芸評論家、リヒャルト・シュトラウス協会理事。著書に「近代自我の解体」(勉誠出版、1995年)、「視点」(邑書林、2000年)、「反学問のすすめ 視点Ⅱ」(邑書林、2002年)などがある。

「ドイツにはゲーテ、ホフマンスタール、トーマス・マンなどイタリア(とりわけヴェネツィア)に夢中になってそれが代表作ともなっている文学者が少なからずいます。それゆえ「ドイツ文学に於けるイタリア」というテーマを研究テーマにしているドイツ文学者も少なからずいます。私もその一人です。それゆえでしょうか、私は2005年にナポリのサン・カルロ歌劇場 Teatro di San Carloが来日した時のプログラム(永竹由幸氏監修)にヴェルディの「ルイーザ・ミラー」の原作者フリードリヒ・シラーについて書きました。」