ビタミンとバイタリティー

ビタミンとバイタリティー

ビタミン、バイタリティーの共通点

アカペラやインフルエンザなどは、正真正銘のイタリア語でわかりやすいのですが、カタカナ外来語の中に「さりげなく」隠れているものもあります。

「健康のためにビタミンをよく摂って下さい。」とか「あの人はバイタリティーがあるなー」なんていうことをよく言いますが、今回のテーマは、そのビタミンとバイタリティーです。

 

ビタミンは vitamin、バイタリティーは vitality と英語では綴るのですが、何か共通点に気付きませんか?

そうです。vita というコトバが隠れており、まさにイタリア語の vita (ヴィータ )なのです。イタリア語の vita とは「人生」であり、「命、生命」という意味があります。ではビタミンがどういうつくりになっているかというと、なんと

vita (生命)+ amin (「アミン」という化合物)

であり、「ヴィータアミン」がつまり「生命のアミン」という命名だったのです。

バイタリティーは「生命力」そのものですね。

イタリア語の vita といえば、何かイタリア語特有のひびきをもっており、日本語とは関係ないように感じますが、意外なところに隠れていたのですね。

最後に練習クイズです。「甘い人生」とはイタリア語でなんというでしょう?

dolce (    )

 

 

 

(答)dolce vita

 

 

「ラグーザお玉」 その2

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シチリアという異文化の中で

ラグーザお玉さんは、明治から昭和初期にかけて、50年間、イタリアのシチリアで暮らしました。よく、この頃に外国へ渡った人の苦労話には「人種差別にあった、異文化に慣れるのに苦労した」といったことが多いのものです。

ところが、ラグーザお玉さんの自叙伝にはそうしたことが書かれていません。もちろん人知れず苦労はあったでしょうが、彼女は、「日本人として特別に扱われるというようなことは一向ございませんでした。・・・(中略)・・・町の人々も、特に日本人だからという変わった待遇を致しませんで、全くその土地の者同様に認めてくれ、尊敬してくれました。」と話されています。

 

異文化に慣れたシチリア

これは彼女の人間性のみならず、歴史的に異文化が交じり合ってきたシチリアの風土によるところもあるのではないか、と感じます。また、彼女は50年間のイタリア滞在中、出会った日本人が「10人ほど」で、日本語すら忘れてしまいました。しかし、肝心の「イタリア語」に関しては、苦労話も含め、ほとんど記述がないのです。それだけ、「再び日本へ帰るまいと決心した」彼女がイタリアでの生活に馴染んだからでしょう。

よく「日本人は英語がなぜできないか?」という議論がされますが、そうした決心や覚悟があるのかどうかも考えてみてもいいかもしれません。

余談ですが、ラグーザお玉さんと夫の名前からとられた高校がシチリアにあります。

 

「ラグーザお玉」 その1

「ラグーザお玉」 その1

ラグーザお玉さんとは?

「ラグーザお玉」という方をご存じでしょうか? 明治の日本人女性で、画家です。明治初年から東京美術学校の教授をしていたイタリア人、ヴィンチェンツォ・ラグーザに見初められ、明治15年に結婚してイタリアへ渡り、その後、50年間イタリアのシチリア島にあるパレルモで暮らされた方です。国籍も、「イタリア人」になってしまわれた女性画家です。

なぜこの女性を紹介するかというと、この方がイタリア語に堪能であったことはもちろん(50年もいれば当り前ですが…)、さまざまなエピソードがとても面白いのです。なにせ、「人力車が走るか走らない頃」に日本を発ち、52年後に日本に帰って来られたのですから、浦島太郎みたいなものです。このことは恒文社の「ラグーザお玉自叙伝(木村毅編)」に詳しく書かれています。

そのエピソードのひとつをご紹介します。

 

日本語を忘れたものの…

ラグーザお玉さんは、日本人などほとんどいないイタリアの地方で、長い年月、生活をしていたため、52年ぶり(!)に日本へ帰ったときは、「日本語を忘れていた」そうです。しかし、ここからが、感動的です…。

「しかし神戸でいったん、日本の宿屋へ落ちつきますと、私は、子供の時に描きました自分の画稿を沢山見せられて、たちまちに沢山の日本語を取り戻しました。」

匂いやメロディーで何かを思い出したりすることがありますが、人間の感覚って不思議だな、と思います。

ラグーザお玉さんは、イタリアそのものに入り込んだという意味では、もしかすると初めての日本人女性ではないでしょうか?(「ラグーザお玉」 その2 へ続く

 

「いってらっしゃい!」

「いってらっしゃい!」

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日本語では、誰かが出かけるときに、「いってらっしゃい!」と言いますね。

これは、イタリア語だと、どう言うのでしょうか?

翻訳を中心とした英語教育のせいか、私たちは外国語を話すとき、日本語を訳そう、訳そうとして、表現につまってしまうことがよくあります。この「いってらっしゃい」や「よろしくお願いします」もいい例かも知れませんね。

こういう場合、イタリア語の決まった表現さえ知っていれば、安心です。「いってらっしゃい」の表現をわかりやすいイタリア語で解説してくれていますので、どうぞ読んでみてください。

「いってらっしゃい」

si dice in diversi modi a seconda della situazione, quando qualcuno parte si dice:

Buon viaggio!

se parte per le vacanze:

Buone vacanze!

quando un membro della famiglia o un ospite esce di casa la mattina si augura:

Buona giornata!

se esce per andare al lavoro:

Buon lavoro!

ということで、シチュエーションごとに変わってきますが、かゆいところに手が届いたのではないでしょうか。

 

 

 

オカリナとある鳥

oca

オカリナはイタリア語だった!

楽器のカタチは何かの形を模していることがあります。例えば、ヴァイオリンやチェロの形は、女性の身体をあらわしている、と聞いたことがあります。

楽器の「オカリナ」は、模しているわけではないのですが、名前そのものの由来がとても面白いのです。では、今回のテーマ「オカリナ」を探ってみましょう。

これは私も最近になって「そういえばそうか!」と気付いたのですが、 ocarina という単語は、イタリア語なのです!親しみのある言葉ですが、イタリア語だと知っている日本人は少ないでしょう。

 

オカリナのoca

さらに、この ocarina には oca という単語が、 ひそんでいます。 oca の意味は「ガチョウ」なのです。

oca という単語に「小さい、かわいらしい」をあらわす接尾辞 -ino が合わさって、 ocarina となりました。(以前テーマにした「小さなviola」でviolino(ヴァイオリン)になったのと同じです。)

オカリナという楽器の形が、ガチョウの首のようであることから名前がついたようです。 ちなみに「オカリナ」という楽器はコレ↓です。

ocarina

 

 

 

 

なんだかオカリナという楽器の形が新鮮に思えてきますね。 この楽器の由来をさらに探ってみると驚きます。オカリナを発明したのは…。

oca (女性名詞) 「ガチョウ」

 

18.第二次世界大戦と戦後

1945年、ムッソリーニが逮捕、処刑されたのに続き、ドイツの独裁者であったヒトラーも5月に自殺をして、第二次世界大戦は集結していきます。

ムッソリーニ政権の崩壊後、イタリアはレジスタンス活動、パルチザン(ゲリラ)活動などで内戦状態ともなりましたが、1946年に王制が廃止され、1948年には現在のイタリア共和国( La Repubblica Italiana )の憲法が制定されました。

ムッソリーニの対外侵略としては、東ヨーロッパに位置するアルバニアへの侵攻、そしてアフリカの植民としてはエチオピア(~41年まで植民地)、エリトリア、ソマリア(~60年)がありました。イタリアはこの大戦を通して50万人以上(日本は約310万人)の犠牲者を出しました。戦後の1947年、パリ平和条約によって連合国と講和条約を結びました。

17.ムッソリーニと第二次世界大戦

第一次大戦後の世界的な不況の中、台頭したのがムッソリーニでした。ジャーナリストであったベニト・ムッソリーニ( Benito Amilcare Andrea Mussolini, 1883-1945年)は、1919年にのちのファシスト党( Partito Nazionale Fascista )となる党を結成しました。この党は1943年まで続くイタリアの独裁政権となりました。

ムッソリーニは1922年にクーデターとしてローマ進軍を行って政権を握ります。1940年、イタリアは日独伊三国同盟にも調印し、ドイツとともにイギリス、フランスら連合国と開戦しました。

しかし1943年には連合国軍のシチリア上陸を許したのち、ムッソリーニ政権は崩壊してイタリアは無条件降伏します。ムッソリーニは1945年に逮捕されて処刑されました。

16.第一次世界大戦

1914年には、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まりました。イタリアは、トリエステ( Trieste )など国境部の問題からオーストリアと対立していたため、イギリスとフランスと秘密協定を結びました。

第一次世界大戦は、イギリスとフランスなどの連合国が勝利したため、イタリアはオーストリアからトリエステ、南チロルなどの領土を獲得しました。

ただしイタリア王国ができてからというものイタリアが主張していた領土(現在のクロアチアなど)は回収できず、「未回収のイタリア」( Italia irredenta )といわれています。

第一次世界大戦で疲弊したイタリアは失業者が増加し、国民の不満は募りました。そんな中、台頭してきたのが、ムッソリーニのファシズムでした。

15.イタリア統一後

1861年に統一したイタリアはイタリア王国としてトリノ( Torino )を首都としましたが、現在の領土ではなくヴェネツィアやローマはあとから領土となりました。

ヴェネツィア( Venezia )は1866年の普墺戦争、ローマ( Roma )は1870年の普仏戦争によって併合しました。ローマが現在のような首都になったのは1871年になってからのことです。

19世紀は、アフリカ・アジアへの植民地化を行うヨーロッパの帝国主義の時代でした。イタリアも1896年にはエチオピアに侵攻しましたが、植民地化には失敗しました。

14.リソルジメント(イタリア統一)Ⅱ

イタリアの統一運動は、北部イタリアはサルデーニャ王国を中心に展開されます。1859~61年にかけては、オーストリアとの激しい戦争に勝利し、ヴェネト地方を除いた北イタリアを統一しました。

一方、南部イタリアは、リソルジメントの英雄である軍人ガリバルディ( Giuseppe Garibardi )が大きく貢献します。1860年、シチリアでの反乱を機に、千人隊を組織してスペインのブルボン家の支配していた両シチリア王国を滅ぼしました。そして、征服地である南イタリアをサルデーニャ王国のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上しました。

これによって、1861年、サルデーニャ王国によるイタリア統一(リソルジメント)が達成されました。イタリアの国王には、サルデーニャ国王であったヴィットーリオ・エマヌエーレ2世( Vittorio Emanuele Ⅱ )が即位しました。2011年はこのイタリア建国150周年を迎えました。

ガリバルディは文字通り英雄で、イタリアの各地の通りには彼の名前がつけられ、多くのモニュメントがあります。彼の軍隊は、約1000人の義勇兵を集めたことから千人隊( La Spedizione dei Mille )、または、兵士に赤いシャツを着せたことから「赤シャツ隊」( Camicie rosse )とも呼ばれます。これほどの功績のあった人物ですが、政治家にもならず、受勲も拒んだといわれています。

ガリバルディのイタリア語の授業です!(Studente.itという学生サイトより)

13.リソルジメント(イタリア統一)

1814年のナポレオン体制の崩壊後は、イタリアはまた地方ごとの、元の公国(北西イタリアはサヴォイア家のサルデーニャ王国、北東はオーストリア帝国、シチリアはスペインのブルボン家など)に戻ったものの、ナポレオンの侵略による国家統一は「イタリア」という独立国家への夢をもたらしました。

1820年ごろから各地で暴動が起きるようになり、その初期のグループには秘密結社カルボナリ(  Carbonari )、ジュゼッペ・マッツィーニ( Giuseppe Mazzini )率いる青年イタリア(  La Giovine Italia )があります。イタリア国家統一、つまりイタリア憲法制定のための運動は次第に大きくなりました。

その運動の中で発行された新聞が「リソルジメント(  Il Risorgimento )」で、今ではイタリア統一運動全体を「リソルジメント」と呼びます。

イタリアの統一運動の中心となったのは、サルデーニャ王国(サルデーニャとピエモンテが領土)の首相カヴール(  Camillo Benso, Conte di Cavour )でした。1859年、カヴールはフランスとも手を組み、オーストリア帝国からロンバルディアなど北イタリアを奪います。北部イタリアは、このサルデーニャ王国を中心に統一運動が展開されました。(明日に続きます)

リソルジメントのイタリア語の授業です!(Studente.itという学生サイトより)

12.ナポレオンの登場

ルネッサンス、宗教改革のあとの17、18世紀ともイタリアの状況は、スペイン・オーストリアといった王家の支配下にありました。

18世紀末に登場したフランスの将軍ナポレオン・ボナパルト( Napoleone Bonaparte )は、イタリアにも侵入をしました。その当時北イタリアは教皇やオーストリアへの不満が強く、かえってナポレオンは解放者とされました。

その後、ナポレオンは教皇領であったローマも侵略し、1805年、彼はイタリア王国の皇帝ともなりました。このことは当時バラバラであったイタリアがナポレオンによって統一されてことを意味し、のちのイタリア統一運動へのきっかけとなりました。

ナポレオンのイタリア語の解説です!(Studente.itという学生サイトより)

11.宗教改革

中世以降の大きな動きであるルネッサンスとならんで、もう一つ革新的な運動としてあげられるのが宗教改革( Riforma protestante )です。これはドイツからはじまり、ヨーロッパ全土に広がりました。

権力闘争に明け暮れ世俗化し、堕落しつつあったローマ・カトリック教会への不満から起こった運動です。今一度聖書の教義に立ち戻る「ルネサンス的運動」ともいわれています。

この運動は、当時ローマ教会が売っていた証明証である「贖宥状(しょくゆうじょう)」( indulgenza )をドイツのマルティン・ルターが批判したことがきっかけといわれています。贖宥状とは、罪の償いを軽減する証明書で「免罪符」ともいわれます。

この宗教改革によって、プロテスタントとカトリックが対立し、ヨーロッパ全土で争うことになりました。

 

10.ルネッサンスⅡ

10.ルネッサンスⅡ

ギリシャ・ローマ古典文化の再生

東ローマ帝国では古代ギリシャ文化の研究が盛んになっており、1453年の東ローマの滅亡後、多くの学者たちが西ヨーロッパへ流れていきました。

それによってギリシア・ローマの古典文化が見直されること=つまり古典文化の「再生」運動がおこります。ルネッサンスは( Rinascimento )「再生」という意味なのです。もちろん、当時からルネッサンスと呼んでいたわけではなく、後世の歴史学者があとから「ルネッサンス」と名づけたものです。

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ルネッサンスの最盛期は14~16世紀とされ、ローマではヴァチカンの教皇、フィレンツェではメディチ家( Medici )、ミラノではスフォルツァ( Sforza )家などが芸術家のパトロンとなって、画家・彫刻家のミケランジェロ( Michelangelo )、ダヴィンチ( Leonardo da Vinci )、建築家のブルネレスキ( Filippo Brunelleschi )などの天才的芸術家たちを擁護しました。

 

あわせてブログ記事「ルネッサンス→」もどうぞ

 

 

9.ルネッサンス

9.ルネッサンス

ルネッサンス時代

1453年の東ローマ帝国の滅亡によって、歴史的には「中世」( mediovale )という時代は終りとされます。14~16世紀は、イタリア史でも燦然と輝くルネッサンス( Rinascimento )の時代ですが、ルネッサンスというのは文化芸術の話が中心で、実際のところイタリア半島は戦乱の時代でした。

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中世の末期の15世紀になってもイタリアは政治的なまとまりがなく、中央集権的な権力といえばローマ教皇か、南部のシチリア王国ぐらいのものでした。

あとはハプスブルグ家、ブルボン家などの支配を受けたり、自治都市のコムーネ( comune )が各地に作られます。ヴェネツィア共和国( Repubblica di Venezia )や、ナポリ王国( regno di Napoli )などは独立した国家でした。

16世紀前半にはイタリアの統治をめぐって、主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国皇帝・スペイン王)とヴァロワ家(フランス)の間でイタリア戦争( Guerre d’Italia del XVI secolo )が起きており、ルネッサンスの時代が芸術に勤しんだ平穏な時代ではないことがわかります。

 

8.シチリア王国

8.シチリア王国

シチリア王国の歴史

これまでイタリアの歴史をつづってきましたが、イタリア半島の先にあるシチリア島( Sicilia )は地中海に浮かぶ島として、ちょっと変わった歴史をもっています。

もともとこの地には先住民族としてフェニキア人( Fenici )がおりましたが、紀元前8世紀頃からは古代ギリシャの中心地のひとつとなります。三平方の定理で有名な数学者アルキメデスもこの地の出身です。シチリア島には今でも多くのギリシア神殿が残っています。

紀元前4世紀には、北アフリカを拠点にしていたカルタゴの支配下となり、その後は、ローマ帝国、東ゴート、東ローマ帝国による支配を受けます。9世紀にはアラブ人によって侵入され征服されました。イスラム教徒による支配にあっても、多様な文化や宗教は共存していたのがシチリアの特徴的なところです。

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ノルマン王朝時代の宮殿 Palazzo Reale

そののちの11世紀、ノルマン人( Normanni )のバイキングの侵略があり、1130年にはシチリア王国( Il Regno di Sicilia )が成立しました。ここでもイスラム教やギリシア正教やカトリックが共存していました。学問や芸術に対する造詣が深いインテリのノルマン王ルッジェーロ2世( Ruggero Ⅱ )や、その後のフェデリーコ1世( Federico Ⅰ )といった王は、多様な文化と宗教の中での統治者として近代的な感覚の持ち主であったと伝えられています。

その後は、スペインのアラゴン王家、スペイン・ハプスブルク家、スペイン・ブルボン家の分家など、主としてスペインに統治されるようになった歴史があります。

 

7.中世とは?(5~15世紀頃)

中世とは?

「中世( mediovale )」という言葉をよく聞きます。「中世ヨーロッパ」「中世イタリア」というように。この「中世」とは、ヨーロッパの歴史的には476年の西ローマ帝国の滅亡から~1453年の東ローマ帝国の滅亡あたりを指すようです。

この1~3世紀の古代ローマ帝国と、14世紀のルネッサンスのあいだの1000年ほどは、イタリアの歴史には特に芸術・文化で目立ったものがありません。

ローマカトリック教会がかなり権力として力をもっていたため、信仰の厳しさ、封建制度、異端審問、ペストの流行、そしてビザンツ帝国やイスラム教国の発展を遂げていたのに比較して「暗黒の中世」などと呼ばれるようです。

 

 

6.中世のはじまり(5~10世紀頃)

西ローマ帝国の滅亡後

476年の西ローマ帝国の滅亡後、イタリアには北部からランゴバルト族( longobardo )が侵入して勢力を強めました。

また、ローマカトリック教会も台頭して、ローマ教皇が権力をもち、イタリアは王国や公国なども乱立するようになります。政治的には何ら統一されていないバラバラの時代がはじまります。

ただ、そんな乱立の時代も、ローマカトリック教会だけは安定した権力を誇りました。

 

神聖ローマ帝国の誕生

800年には、フランク族のカール大帝がローマで戴冠し、神聖ローマ帝国( Sacro Romano Impero )が誕生します。

しかしこの「ローマ」はローマ帝国の継承者という意味だけで、神聖ローマ帝国の中心は、ドイツ・オーストリアでした。イタリアでは、教皇や都市国家による政治が各地で行われ、イタリアを自分の領土だと主張する教皇とも対立しました。

 

5.古代ローマの衰退と分裂(3~5世紀頃)

5.古代ローマの衰退と分裂(3~5世紀頃)

ローマの衰退

パクスロマーナ( Pax romana、「ローマの平和」)は、紀元180年まで続きました。その後は、栄華を誇った古代ローマ帝国も、異民族の侵入や内部の反乱で衰退していきます。

この時代に、紀元前後に生まれたキリストとその弟子たちによって、キリスト教が生まれ、普及していきました。4世紀前半の皇帝コンスタンティヌスは、313年にキリスト教を公認しました。

この皇帝は、コンスタンティノープル( Constantinopoli 、現在のイスタンブール(写真下))を建設したことでも知られています。

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衰退したローマ帝国は、395年、東西に分裂します。東ローマ帝国( Impero bizantino, Impero romano d’Oriente ビザンツ帝国)はコンスタンティノープルを首都とし、その後1000年栄華を誇りました。

一方、西ローマ帝国はローマを首都としますが、476年には滅亡しました。この時期からルネッサンスあたりの時代は中世( mediovale )と呼ばれています。

 

4.帝政ローマ(1~3世紀頃)

4.帝政ローマ(1~3世紀頃)

帝政ローマ(パクスロマーナ)

カエサルが暗殺されたあと、ローマではオクタヴィアヌス( Octavianus )が皇帝アウグストゥス( Augustus 下写真)として即位しました。

このときが紀元前27年、以後約200年間、ローマ帝国は安定の時代を迎え、この時期はパクスロマーナ( Pax Romana )「ローマの平和」と呼ばれています。

アウグストゥス

ハドリアヌス帝( Hadrianus )のときにローマ帝国の領土は最大となり、現在の北アフリカ、イギリス、スペイン、トルコまでもその領土となりました。

 

ローマの遺跡の数々

ローマにはコロッセオ( Colosseo  )、パンテオン( Pantheon )など、かぞえきれないほどの遺跡がありますが、それはこの当時に立てられたものがほとんどです。下水道、橋、道路、神殿、浴場、劇場、競技場など、当時の建築技術には目を見張るものがあります。

ちなみに、7月、8月のことを英語、イタリア語でそれぞれ、july luglio、august agostoといいますが、これはジュリウス( Julius )・シーザーと、アウグストゥス( Augustus )にちなんでいます。

⇒ブログ「ローマ皇帝と7、8月」の記事もあわせてどうぞ

また、一瞬のうちに火山灰の下に埋没した都市にポンペイ( Pompei )の遺跡がありますが、ヴェスヴィオ火山( Vesuvio )の噴火もこの時代の紀元79年です。