速習のイタリア史
旅でも語学でも役立つ!速習イタリア史――イタリア語とともに、まずはイタリアの歴史をカンタンに学んでみませんか?
歴史を知るだけで旅の楽しみが倍増
イタリアはどの街を訪れるにしても、古代ローマやルネッサンスといったイタリア史を少し知っているだけで、何倍にも旅を楽しむことができます。
遺跡、モニュメント、広場、街並み、郷土料理、教会、・・・そのいずれをとってもイタリアの歴史が色濃く反映されています。
ここでは、イタリアの歴史をカンタンに学べるよう「誰でも読めるやさしいイタリア史」を綴ってみました.
共和制とポエニ戦争(紀元前6~2世紀頃)
ポエニ戦争
ローマでは、紀元前509年に共和制ローマ( Repubblica Romana )が成立しました。共和制では、当時2つ統治組織があったことで知られています。一つは「パトリキ」( Patricii )という貴族や政治家による元老院です。もう一つは市民の「プレブス」( Plebs )です(ちょうど日本の参議院と衆議院のようですね)。
共和政ローマは、次第に戦争による領土拡大へと向かいます。紀元前3~2世紀には、地中海の覇権を争ってポエニ戦争( Le Guerre Puniche )が行われました。
アルプス越えで知られるハンニバル将軍
ポエニ戦争では、現在のチュニジア(アフリカ北東)に位置するカルタゴの将軍ハンニバル( Annibale Barca )との戦いが特に知られています。ハンニバルはアフリカから像を率いて、地中海からではなく、スペインのピレネー山脈、スイスのアルプス山脈を越えて、イタリアに攻め込んだという伝説的将軍です。
結果的にローマがこのポエニ戦争にも勝利しました。戦争を通して、ローマは現在のイタリア半島のみならず、ギリシア・北アフリカなども領土として支配を拡大していきました。
シーザー(カエサル)の登場(紀元前1世紀)
カエサル(シーザー)の登場
共和制ローマは、戦争により現在のイタリア半島以外のヨーロッパ、東ヨーロッパ、北アフリカへと領土を拡大していきました。内乱状態にありましたが、その中で登場したのが、軍事的英雄として知られるカエサル( Gaio Giulio Cesare 紀元前100年頃 – 紀元前44年、写真下)です。
皇帝となったカエサル
カエサルは、エジプト、スペインなどへの遠征をしていますが、特にガリア( Gallia、現在のフランス周辺)を制圧したことで知られています。このガリア遠征はカエサルが綴った『ガリア戦記』( Commentarii de Bello Gallico )として記録されています。
当時、内乱状態にあった共和制ローマで、終身の独裁官( dittatore )、つまり「皇帝」であるエンペラー( imperatore )となったことで、共和制ローマ( Repubblica Romana )は実質的に終わりを告げたとされます。
カエサルは紀元前44年、腹心であり養子のブルートゥスによって暗殺されました。『ブルータス、お前もか』( Et tu, Brutus? )という言葉はあまりに有名ですね。
カエサルのイタリア語はCesare
イタリア語では、シーザーともカエサルとも言わず、チェーザレ( Cesare )と呼びます。また、ドイツ語の「皇帝」をあらわす( Kaiser )の語源にもなっています。
帝政ローマ(1~3世紀頃)
帝政ローマ(パクスロマーナ)
カエサルが暗殺されたあと、ローマではオクタヴィアヌス( Octavianus )が皇帝アウグストゥス( Augustus 下写真)として即位しました。
このときが紀元前27年、以後約200年間、ローマ帝国は安定の時代を迎え、この時期はパクスロマーナ( Pax Romana )「ローマの平和」と呼ばれています。
ハドリアヌス帝( Hadrianus )のときにローマ帝国の領土は最大となり、現在の北アフリカ、イギリス、スペイン、トルコまでもその領土となりました。
ローマの遺跡の数々
ローマにはコロッセオ( Colosseo )、パンテオン( Pantheon )など、かぞえきれないほどの遺跡がありますが、それはこの当時に立てられたものがほとんどです。下水道、橋、道路、神殿、浴場、劇場、競技場など、当時の建築技術には目を見張るものがあります。
ちなみに、7月、8月のことを英語、イタリア語でそれぞれ、july luglio、august agostoといいますが、これはジュリウス( Julius )・シーザーと、アウグストゥス( Augustus )にちなんでいます。
古代ローマの衰退と分裂(3~5世紀頃)
ローマの衰退
パクスロマーナ( Pax romana、「ローマの平和」)は、紀元180年まで続きました。その後は、栄華を誇った古代ローマ帝国も、異民族の侵入や内部の反乱で衰退していきます。
この時代に、紀元前後に生まれたキリストとその弟子たちによって、キリスト教が生まれ、普及していきました。4世紀前半の皇帝コンスタンティヌスは、313年にキリスト教を公認しました。
この皇帝は、コンスタンティノープル( Constantinopoli 、現在のイスタンブール(写真下))を建設したことでも知られています。
衰退したローマ帝国は、395年、東西分裂をします。東ローマ帝国( Impero bizantino, Impero romano d’Oriente ビザンツ帝国)はコンスタンティノープルを首都とし、その後1000年栄華を誇りました。
一方、西ローマ帝国はローマを首都としますが、476年には滅亡しました。この時期からルネッサンスあたりの時代は中世( mediovale )と呼ばれています。
中世のはじまり(5~10世紀頃)
西ローマ帝国の滅亡後
476年の西ローマ帝国の滅亡後、イタリアには北部からランゴバルト族( longobardo )が侵入して勢力を強めました。
また、ローマカトリック教会も台頭して、ローマ教皇が権力をもち、イタリアは王国や公国なども乱立するようになります。政治的には何ら統一されていないばらばらの時代がはじまります。
ただ、そんな乱立の時代も、ローマカトリック教会だけは安定した権力を誇りました。
神聖ローマ帝国の誕生
800年には、フランク族のカール大帝がローマで戴冠し、神聖ローマ帝国( Sacro Romano Impero )が誕生します。
しかしこの「ローマ」はローマ帝国の継承者という意味だけで、実質イタリアは教皇や都市国家による政治が各地で行われました。神聖ローマ帝国の中心は、ドイツ・オーストリアであり、イタリアを自分の領土だと主張する教皇とも対立しました。
中世とは?(5~15世紀頃)
中世とは?
「中世( mediovale )」という言葉をよく聞きます。「中世ヨーロッパ」「中世イタリア」というように。この「中世」とは、ヨーロッパの歴史的には476年の西ローマ帝国の滅亡から~1453年の東ローマ帝国の滅亡あたりを指すようです。
この1~3世紀の古代ローマ帝国と、14世紀のルネッサンスのあいだの1000年ほどは、イタリアの歴史には特に芸術・文化で目立ったものがありません。
ローマカトリック教会がかなり権力として力をもっていたため、信仰の厳しさ、封建制度、異端審問、ペストの流行、そしてビザンツ帝国やイスラム教国の発展を遂げていたのに比較して「暗黒の中世」などと呼ばれるようです。
シチリア王国
シチリア王国の歴史
これまでイタリアの歴史をつづってきましたが、イタリア半島の先にあるシチリア島( Sicilia )は地中海に浮かぶ島として、ちょっと変わった歴史をもっています。
もともとこの地には先住民族としてフェニキア人( Fenici )がおりましたが、紀元前8世紀頃からは古代ギリシャの中心地のひとつとなります。三平方の定理で有名な数学者アルキメデスもこの地の出身です。シチリア島には今でも多くのギリシア神殿が残っています。
紀元前4世紀には、北アフリカを拠点にしていたカルタゴの支配下となり、その後は、ローマ帝国、東ゴート、東ローマ帝国による支配を受けます。9世紀にはアラブ人によって侵入され征服されました。イスラム教徒による支配にあっても、多様な文化や宗教は共存していたのがシチリアの特徴的なところです。
ノルマン王朝時代の宮殿 Palazzo Reale
そののちの11世紀、ノルマン人( Normanni )のバイキングの侵略があり、1130年にはシチリア王国( Il Regno di Sicilia )が成立しました。ここでもイスラム教やギリシア正教やカトリックが共存していました。学問や芸術に対する造詣が深いインテリのノルマン王ルッジェーロ2世( Ruggero Ⅱ )や、その後のフェデリーコ1世( Federico Ⅰ )といった王は、多様な文化と宗教の中での統治者として近代的な感覚の持ち主であったと伝えられています。
その後は、スペインのアラゴン王家、スペイン・ハプスブルク家、スペイン・ブルボン家の分家など、主としてスペインに統治されるようになった歴史があります。
ルネッサンスⅠ
ルネッサンス時代
1453年の東ローマ帝国の滅亡によって、歴史的には「中世」( mediovale )という時代は終りとされます。14~16世紀は、イタリア史でも燦然と輝くルネッサンス( Rinascimento )の時代ですが、ルネッサンスというのは文化芸術の話が中心で、実際のところイタリア半島は戦乱の時代でした。
中世の末期の15世紀になってもイタリアは政治的なまとまりがなく、中央集権的な権力といえばローマ教皇か、南部のシチリア王国ぐらいのものでした。
あとはハプスブルグ家、ブルボン家などの支配を受けたり、自治都市のコムーネ( comune )が各地に作られます。ヴェネツィア共和国( Repubblica di Venezia )や、ナポリ王国( regno di Napoli )などは独立した国家でした。
16世紀前半にはイタリアの統治をめぐって、主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国皇帝・スペイン王)とヴァロワ家(フランス)の間でイタリア戦争( Guerre d’Italia del XVI secolo )が起きており、ルネッサンスの時代が芸術に勤しんだ平穏な時代ではないことがわかります。
ルネッサンスⅡ
ギリシャ・ローマ古典文化の再生
東ローマ帝国では古代ギリシャ文化の研究が盛んになっており、1453年の東ローマの滅亡後、多くの学者たちが西ヨーロッパへ流れていきました。
それによってギリシア・ローマの古典文化が見直されること=つまり古典文化の「再生」運動がおこります。ルネッサンスは( Rinascimento )「再生」という意味なのです。もちろん、当時からルネッサンスと呼んでいたわけではなく、後世の歴史学者があとから「ルネッサンス」と名づけたものです。
ルネッサンスの最盛期は14~16世紀とされ、ローマではヴァチカンの教皇、フィレンツェではメディチ家( Medici )、ミラノではスフォルツァ( Sforza )家などが芸術家のパトロンとなって、画家・彫刻家のミケランジェロ( Michelangelo )、ダヴィンチ( Leonardo da Vinci )、建築家のブルネレスキ( Filippo Brunelleschi )などの天才的芸術家たちを擁護しました。






